会社の昼休み、あなたと同僚は昼食をとるために会社の近くの飲食店に訪れました。
「いらっしゃいませ、何名様でしょうか」
そんな挨拶とともに店員Aさんに迎えられ、窓際のテーブル席へと案内されます。このとき、店員Aさんはにこやかな笑顔と明るい声で接客をしてくれました。初めて訪れた店でしたが日替わりメニューのランチも美味しく、あなたは同僚と楽しい時間を過ごすことが出来ました。
もし、同じ場面において、店員Aさんが、無愛想でニコリともしない態度であったなら、あなたはどんな風に感じたでしょう。「なんだか感じ悪いな」「この店は大丈夫だろうか」などと不満に思ってしまうのではないでしょうか。
極端なことを言えば、店員Aさんの接客態度によって、その店のサービスの質だけでなく料理の味に対する評価までもが左右される可能性もあります。なぜなら、店員の笑顔や明るい声の調子といったものも店側が提供するサービスの一部であると、私たちは捉えているからです。
でもその裏で、店員Aさんは人前で笑うのが実は苦手かもしれませんし、面倒くさいと思っていたかもしれません。それでも、仕事中は常に明るくにこやかな表情で振る舞うことが求められます。
このケースのように「業務の一部として、人と接する際の自分の表情や声の調子などのコントロールが求められる仕事」を、『感情労働』と言います。
目次
笑顔や明るい声で仕事することを当然のように課せられる「感情労働」
感情労働という言葉はアメリカの社会学者であるアーリー・ホックシールド博士が、自著である『The Managed Heart』の中で取り上げたことをきっかけに急速に広まりました。
この本が出版されたのは1983年ですが、日本国内でも2000年に翻訳版が出版されています(ホックシールド. A.R.石川准・室伏亜希(訳)『管理される心―感情が商品になるとき―』(https://amzn.to/2ICjU3G)世界思想社)。
それから約20年が経過し、サービス経済化が進む社会情勢を背景に感情労働人口は当時よりもさらに増加の一途にありますが、感情労働という考え方はまだまだ世間一般に浸透しているとは言えないのが現状です。
ホックシールド博士いわく、感情労働とは「公的に観察可能な表情と身体表現を作るために行う感情の管理であり、それは賃金と引き換えに売られるため〈交換価値〉を有する」と定義されます。
簡単に言うと、感情労働者には、サービスや商品を提供する際に笑顔や明るい声などを作り出すことが業務の一部として当然のように課せられており、それに対する報酬も給与に含まれているというわけです。
すなわち、感情労働とは、頭脳労働における頭脳(専門的な知識や情報処理能力)や肉体労働における肉体(筋力などの身体能力)のように、感情を仕事に欠かせないツールとして用いる労働形態の一種と言えるでしょう。
客室乗務員と債権回収人は、どちらも「感情労働」を強いられる典型例
博士は、感情労働の典型例として、同じ航空会社に勤めている客室乗務員と債権回収人にスポットを当てました。
前者は、全ての乗客に対して常に笑顔で接し、丁寧なおもてなしをすることが職務として要求され、後者はフライト代金の未払分を顧客から回収するために表情や口調を敢えて厳しいものにし、時には威嚇することまでもが仕事の一部となります。
一見、真逆の職務内容に思えますが、両者には一つの共通点がありました。それは「職務上適切な、もしくは不適切な感情表現が決められており、それに従った感情の管理を求められる」という点です。
ようするに、感情労働は、職業ごとにマニュアルで明示的に、もしくは暗黙裡に定められた感情管理を行って、顧客に満足感や安心感、購買意欲といった感情を抱かせることを目的に行われるのです。
では、そのほかにどのような職業の人たちが感情労働を行っているのでしょうか。代表的なのは看護師や教師などいわゆる対人援助職と呼ばれる人たちです。飲食店店員やコールセンターといった接客業の人たちも当てはまります。
とはいえ、それ以外の職業の方たちは感情労働をしていない、と決めつけるのは早計です。むしろ現代においては、様々な職業分野でサービスという側面を重視することが当たり前になってきています。
よって、人と関わる仕事をしている人たちは皆、大なり小なり感情労働をしていると言っても過言ではありません。
感情労働者はまるで“舞台役者” 「表層演技」と「深層演技」の違いも
さて、感情労働では、上述のような職務的に求められる感情管理をいかにスムーズに行うかがキーポイントとなります。
そのために用いられるのが、「表層演技(surface acting)」と「深層演技(deep acting)」と呼ばれる2つの演技方略であり、感情労働者は、対人業務という舞台に立つ役者ということになります。
「表層演技」とは文字通り、外から見ることができる表面的な感情表現の仕方を、仕事上で求められるものに変化させるような行為を指します。
例えば、お客さんを目の前にしたとき、内心では「横柄な態度で嫌な客だな」と思っていても、本心を相手に悟られないように隠して、意識的に笑顔を作り出すような行為です。
一方の「深層演技」は、内面的な感情の持ち方自体を職務上望まれるものへと変えることによって、仕事中の感情表現も変化させる方略です。少し難しいかもしれませんが、仕事における役割を理解し、役になりきるようなイメージと言えば分かりやすいでしょうか。
例えば、「私は心が広いので、どんなお客さまに対しても嫌だと思わずに笑顔で仕事をする」などと自分に言い聞かせて職務にあたるような行為が該当します。横柄な態度のお客さまに当たったとき、「嫌だ」と思うのが本来の気持ちでしょう。
でも、深層演技では仕事上の役割になりきることによって、「親しみ」などの別の気持ちを意図的に作り出すことになります。
「本来の気持ち」と「表情」のズレが“燃え尽き症候群”を生みかねない
これら2つの演技方略は、その場の状況や労働者自身の性格などに応じて使い分けられていると考えられますが、表層演技を使う際には少し注意が必要です。
というのも、表層演技では、あくまでも表面上の感情のみを操作するため、必ずしも「内面で生じた本来の気持ち」と「仕事として外に出すよう求められる気持ち」が一致するとは限りません。
もし、内心ではイライラしているのに笑顔を作らなければいけない場合、実際の感情経験と仕事上の感情表現には「ずれ」が生じます。
このような感情の不一致状態を「感情的不協和」と呼び、これが感情労働者にとって大きなストレス要因であることが先行研究によって明らかになっています。
例えば、看護師などの対人援助職を対象とした調査では、感情的不協和が不安や不眠、うつ傾向といったストレス反応や、バーンアウトに繋がる可能性があることが報告されています。
バーンアウトとはいわゆる燃え尽き症候群のことで、症状としては、①精神的にぐったりと疲れ果ててしまう、②人と関わることが嫌になってコミュニケーションをとるのが面倒になってしまう、③仕事上の個人的なやりがいや達成感が失われてしまったりする、などが挙げられます。
さらに、感情的不協和は労働者の職務満足度を下げることや転退職しようとする意図を促すこと、また、血圧を急激に増加させることなども指摘されており、働く人々の心身に様々なマイナス影響を及ぼす可能性があるのです。
実は筆者も、感情労働を研究テーマとするからには自分でも経験しておこうと、飲食店のホールで一時期アルバイトをしていたことがあります。当時働いていたのは観光名所近くの和食料理店で、国内外からの観光客で何時も賑わっており、休日などは目の回るような忙しさでした。
そこで何度か感情的不協和を経験しましたが、その多くはお客様からのクレーム状況下で起こったものでした。
クレーム内容としては、混雑時に料理の提供までに時間が掛かったことや、新規のお客様をご案内したテーブルに汚れが残っていたことなどが挙げられます。お客様には非がありませんので、店側の人間として謝罪をするわけです。もちろん、お客様に対する申し訳なさはありました。
ですが、こちらが謝罪をしてもなお必要以上に責め立てられたりすると、あまりの多忙さに余裕がなかったのもあり、「こちらも一生懸命働いているのだから少しくらい待ってくれても良いのに」とか、「料理の提供が遅れたのはホール担当の私のせいではないのに」とか内心は理不尽に思いつつ、何度も頭を下げました。
その後も、すぐに笑顔を作って次のテーブルに向かわなければならず、まさに、感情的不協和の状態でした。要望や苦情の域を明らかに超えるような悪質なモンスタークレーマーに応対する場合は、もっと強い感情的不協和を経験するであろうことは想像に難くありません。
クレーム場面以外でも、店内が忙しいタイミングでお客様にわざわざ呼び止められ何事かと思いきや、料理やサービスに関係のない世間話で、思わず笑顔が引きつってしまいそうになったこともあります。
幸い、筆者は週に1、2回勤務する程度のアルバイトでしたし、感情的不協和の経験もそれほどありません。しかし、日常的に感情労働に従事し、何度もこういう経験をしている人たちは本当にストレスフルだと思います。
「深層演技」を用いることで感情的不協和を避けられる可能性も
では、感情的不協和に陥らないようにするためには一体どのようなことに気をつければ良いのでしょうか。感情労働を全くしないというわけにはいきませんので、その際に出来るだけ表層演技よりも深層演技を用いることです。
上記のアルバイトの例で言うと、「料理の提供が遅れたのは私のせいではないのに」と思うのではなく、「キッチンもホールも全員が同じ店の一員である自覚を持ち、誰が失敗したとしても責任は全員にある」などと思い込むようにする、といった具合です。
深層演技は、一度うまくいくと自分の本当の感情が仕事上求められる感情に近づいていくため、表層演技に比べて偽ったり隠したりする必要がなくなる一方で、仕事上必要な感情状態に入り込むことが求められるという点から、表層演技に比べてより高度な感情管理だと言われています。
また、忙しいときやスピードが求められるときは、表層演技の方が都合の良い場合もあります。そこで、皆さんが効率良く深層演技を使えるようになるための工夫の一つとして、仕事前には必ずこれをする!という自分だけのルーティンを作り、感情の入れ替えをしやすくしてみると良いかもしれません。
「制服に着替えるときは必ず右腕から袖を通す」とか、「店に入る前に大きく深呼吸をする」とか、どんな行為でも構いません。重要なのは、そのルーティンをした瞬間に、自分自身を「プライベートモード」から「仕事モード」へと切り替えるという感覚を持つことです。
それによって、深層演技がよりスムーズに出来るようになる可能性が高まります。
ただし、深層演技も、時には感情的な疲労感と結びついてしまう可能性が指摘されているため、気をつけなければなりません。なぜなら、深層演技で生じる感情は、あくまでも「仕事で必要なために意図的に作り出される感情」であり、自然な感情表現とはやはり異なるからです。
「これは仕事だから」とある程度割り切ることによって、「仕事で何を言われても、今は演技中のためプライベートの自分に言われているわけではない」といった考え方が出来るようになることも大切です。
それでも、感情的不協和を完全になくすことは恐らく不可能なため、ストレスが生じた際に備えて職場におけるセルフケアやラインケアも重要となってくるでしょう。例えば、EAP機関が提供している、カウンセリングサービスなどを利用してみるのも1つです。
今回ご紹介した感情労働は、まだまだ解明されていない部分や概念的な整理の必要な部分も残されていますので、今後も研究を進めていきます。