この記事では、世界保健機関(WHO)が勧める、世界中の人々に共通して役立つストレス対処スキルについてWHOが公表しているガイドブックをもとに解説します。
以降で紹介するWHO公表のガイドブックは約130ページほどのボリュームがあり、すべて読み切るのは大変という方もいらっしゃるかと思います。
今回は、当ガイドブックの概要とガイドブック全体の要素が詰め込まれているセッション1についてのポイントを説明していきます。
目次
背景
コロナ禍に入った2020年4月、まだ分からないことが多い感染症の流行に、世界中で不安を抱えた人々が増えていたと思われます。ちょうどその時に、WHOから「ストレスを感じたらやるべきこと:イラストガイド」というガイドブックが公表されました。
公式配布先:https://www.who.int/publications/i/item/9789240003927
ページ中頃にあるJapaneseをクリックすると日本語のガイドが入手できます。イラストと短い文による解説で、直感的に読み進められます。
ガイドブックの特徴
イラストがメインで読みやすい
多くの人が直感的に内容を理解できるようにするため、イラストに簡単な説明がついたページで構成される、イラストガイドという形式になっています。
きちんと検証されている
ガイドブックで解説されている内容での効果検証が行われ、様々な機関でフィールドテストが重ねられています1)。
使用場面の範囲がとても広い
とても困難な状況にある人(例:戦争から逃れて難民になったなど)から、平和な地域で働いている人々まで、つらい感情に振り回されたり、何らかの心配事や不安が心に浮かんで悩まされたりすることがあるなら、すべての方に役立つ共通のスキルが解説されています。
また、このガイドブックは心理的柔軟性※と呼ばれるモデルに基づいており、特にストレスがなくても、自分の人生をよりよくしていきたいと思うときの発想法や行動テクニックとしても役立つ考え方です。
ガイドブックは大きく以下の5つのセッションで構成されています。
セッション1:グラウンディング
セッション2:フックはずし
セッション3:価値に沿って行動する
セッション4:優しくあること
セッション5:場所作り
すべて使えるようになるのが理想的ですが、一度に理解するのは大変でしょう。そこでここからは、このガイドブックの中から、前提になる考え方および、ストレスに気づくために有用な「グラウンディング」について解説します。
前提となる考え方
考えや感情に「フックされる」
ガイドブックには、特徴的な表現がいくつか出てきます。その一つがストレス、つまり自分の考えや感情にとらわれて悩む状態を「フックされる」と説明している部分です。
フックとは、何かを引っかける器具、または釣り針などをイメージしてください。ここでは、「思考や感情」とフックが一体となった図が使われています。
人が自分の心の中の考えや感情に気を奪われて、そのことばかり注目し身動きがとれなくなる状態は、まるで何かに引っかかってしまっている状態と例えることができます。釣り針にかかって釣り上げられてしまった魚のようという表現もされています。
上の図のようにフックに引っ張られたり、吊り下がったりした状態では、まともな行動ができなくなってしまう姿は容易に想像できるでしょう。特に、「私は○○だ」、「自分にはできない」といったような、自分に関係する考えや感情は強力なフックになります。ポジティブな考えにフックされる分には望ましい行動につながるため問題ないですが、ネガティブな考えにフックされると大変です。
例えば、「自分は自信がないからそれはできない」といった考えにフックされてしまうと、タスクを分解したらすぐにできるような作業でも、なかなか手が出なくなってしまうような場面が考えられるでしょう。
フックに引っかかってしまったら、外す方法は、再び目の前の事に集中することです。その集中の仕方にはポイントがあります。例えば、手元に飲み物があった場合、それを人生で初めてこれから飲むような勢いで、色、味、香り、温度、飲むときの自分ののどの動きなどをゆっくりと確かめ好奇心を向けながら飲むようにします。
目の前にあるものなら何でも同じような集中をすることができます。誰かと話しているときなら、相手が話していることや声のトーン、顔の表情などに意識を向けながら会話を続けるというように、いつもとちょっと違う集中の仕方をしてみるのです。
フックに引っかかっていると、自分の頭の中の考えや感情の方に気を取られている状態になっているので、目の前の事が見えなくなってしまっています。ここでは、自分の考えや感情にフックされている事に気づいたら目の前の事に集中し、外す、というイメージを覚えておきましょう。
ありたい自分についての心の底からの願い:「価値」
自分の思考や感情にフックされると、どういう事が問題になってくるのでしょうか?それは、よりよい生活、つまりウェルビーイングのための行動を取れなくなってしまうことが最も大きな問題と考えられます。
この図のように、ストレスを感じる状況の後には2つの道筋が想定できます。1つは、思考や感情にフックされて価値から逸れてしまう道です。もう1つは、価値の方に進むことで、ウェルビーイングを目指せる道です。
一般的にはこの右側の矢印の方向へ向かえる方が、幸福な状態となります。言い換えれば、ウェルビーイングに至るためには右側の方向へはっきりと向かえるようになる必要があるということです。
では、価値とは何でしょうか。これは、ありたい自分についての心の底からの願いを言葉にしたものです。たとえば、読者の皆様が、親だったり誰かの世話をしたりする立場だとして、どんな人間でありたいと思うでしょうか?様々な考え方がありますが、よく見られる言葉は次のようなものと考えられます。
・愛情深い
・賢い
・気配りのできる
・積極的な
・粘り強い
・責任感のある
・落ち着いた
・思いやりのある
・守り抜く
・勇気のある
どんな自分でいたいか、また周りの人にどうやって接していきたいかについて言葉で表現したものを、このガイドブックでは価値と呼んでいます。この価値が、行動の指針となり、ストレスを感じる状況においてうまく立ち回れる助けになるのです。
ストレスを感じる状況を悪化させるような思考や感情にフックされずに、このような価値を実現できる行動をとるのに集中することこそが、ウェルビーイングの実現に役立ちます。
ストレスに気づく基礎スキル:グラウンディング
ストレスを感じる状況で自分の考えや感情にフックされ、価値から逸れてしまいそうになった時に、その状況に気づき、対処するためのよい方法があります。それがグラウンディングと呼ばれる方法です。
グラウンディングとは、自分の考えや感情にフックされ、振り回されている状態から、注意の向け方を切り替えることでその影響を和らげ、より大事なことに集中できるようにするプロセスを指します。
直訳すると「地面に置くこと」「接地すること」といった意味になります。ここでの地面は、安全な状態の例えです。その地面にしっかりとつながるために、自分の周りの世界を五感を使ってよく認識し、自分の中で猛威を奮っている考えや感情を客観的に眺められる状態に自分を持っていく方法をグラウンディングと呼んでいます。
以下にグラウンディングの実際の手順を紹介します。ストレスに圧倒されそうになっているときにすぐにできるように、日ごろから練習して流れを体で覚えることが大事です(ガイドブックのp38-40)。
ステップ1:自分の身体とつながる
・まず落ちついてゆっくり息を吐いて、肺を完全に空にします。次にゆっくり息を吸って肺に空気をみたしていきます
・ゆっくり足の裏を床に押し付けます
・ゆっくり両腕を左右に伸ばすか、両手を押し合わせます
ステップ2:周りの世界に集中する
・見える物を5つ探します
・聞こえる音を3,4つ探します
・息を吸って何か匂いがするか感じてみます
・自分が今どこにいて何をしているのかに気づきます
・自分の膝や床など、何か手が届く物に触れて、どのように感じるか気づきます
ステップ3:考えや感情に気づく
・自分の中につらい考えや感情があらわれていることに気づきます(つらいものがなければ、単に生じている考えや感情でよいです)
・同時に、自分の周りに、五感で感じられる世界があることに気づきます
・自分が手や足や口を動かすことができることを感じます。つまり自分の意思で何か行動できるという事をあらためて感じます。
以上がグラウンディングの流れです。
重要な点として、これは自分の考えや感情を消し去ってくれるものではないことを知っておきましょう。考えや感情が心の中で渦巻いている状態が過ぎ去るまで、安全な場所にとどまる方法なのです。
まとめ
本記事では、WHOがおすすめするストレス対処のセルフケアのガイドブック「ストレスを感じたらやるべきこと:イラストガイド」から、前提となる考え方と、グラウンディングの流れを紹介しました。
これらをさらに深めていくテクニックはガイドブックの方に詳細に書かれていますが、ストレスを感じる状況でうまく対処するには、次の3点をおさえておくことで乗り越えやすくなるでしょう。
・考えや感情からフックされることに気づき、それははずすこと
・価値の方向を意識すること
・グラウンディングを練習し、いざという時に使えるようにすること
まずはこのポイントから始めて、徐々に使えるスキルを増やしていけば、自らのウェルビーイングを実現しやすくなるでしょう。ストレスに翻弄されているばかりの状況から、よりよい生き方は何かに注意を向けてそちらに集中できるよう、この記事がお役に立てればうれしいです。
※本当に大切にしたい自分の考えに意識を向け、それを邪魔するよう勝手に湧き上がる考えや感情にとらわれず、いきいきとした生活を送るための行動的側面のこと。認知行動療法の一種であるアクセプタンス&コミットメント・セラピーで用いられるモデル。詳しく説明した過去記事はこちら(https://www.armg.jp/journal/187-2/)
文献
1) Tol et al.(2020)Guided self-help to reduce psychological distress in South Sudanese female refugees in Uganda: a cluster randomised trial. Lancet Glob Health. 8:e254-e263.